会員からのお便り


「静御前」終焉の地は我が新潟県長岡市
                                  橋本武雄(昭和三六年政経卒)

本紙昨年号で一言だけ触れたように、源平合戦の悲劇のヒーロー「源義経」の愛妾「静御前」の終焉の地は、私の出身地、新潟県長岡市が本命です。終焉の地は、南は福岡県・香川県から、北は福島県郡山市・岩手県宮古市まで、伝えられているそうです。
 長岡市の北東山間部の「栃尾地区栃堀」と言う所の「高徳寺」に、「静御前の墓」と供養塔があります。写真をご高覧ください。愛する義経と別れさせられた傷心の静は、陸奥の平泉に落ち延びた義経を追って平泉を目指しますが、太平洋沿いの道は、頼朝の兵が厳重に固めており北上できません。そのため、静と従者は、京から越後に入り(どのような経路で越後に入ったかは不明ですが、「安宅の関」で有名な、歌舞伎「勧進帳」等で伝わる義経の逃避行コースと同じ北陸路で後を追ったと思われます。)越後の山中経由で会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上すると言う長い道のりを選んだものと思われます。
 長岡から会津に抜ける途中には、地元では名高い「八十里越え」と言う難所の峠があります。この峠のある栃堀までやって来た静は、長旅の心身の疲れから病を発してしまい、従者達の介抱の甲斐も無く、建久元年(一一九〇年)四月、若い身空で世を去ってしまいました。従者達は、里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、その麓に庵を造って静の霊を守り続けることにしました。この庵が、後の高徳寺であります。
 明治の末、静の思いに打たれた「栃尾地区小向」の「セイ」という娘が、その墓が朽ちて行くのを哀れんで、機を織って稼いだ金を細々と貯え続け、静の供養のための石塔を建立しました。これが、今に残る「静御前の墓」に隣接する石塔です。
 ちなみに、歌手の故三波春夫も生前、静御前関係の芝居をするにあたり、この墓の参拝に訪れたそうです。 旅行好きの方は一度、我が長岡市にお越し
いただき、ご自身の目で確かめられてはいかがでしょうか。

 

 

特集 我がふるさと
私どもの生まれ育ったふるさとについて「思い出」
「ふるさと自慢」「思い出す人々」「観光案内」その
他ご出身のふるさとを題材にした自由に書いて紹介し
ていただきました。お互いの交流に役立ててください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わがふるさと 札幌
                                 50年商学部卒  高橋 智

 この原稿を書き始めた2月中旬、新聞・TVは連日ソチ冬季五輪の報道で賑わっている。
:42年前、1972年2月、もうすぐ20歳になろうとしていた私は西荻窪の下宿のTVで札幌冬季五輪に見入っていた。明大入学後ほぼ1年。1人暮らしも、東京の街にも慣れたが、冬休みになってもバイト漬けで帰省できない。下宿は3畳1間。普段はTVさえ無くその時見ていたモノクロTVは隣の部屋の他大生が、同人帰省中に限って私に貸してくれたもの、といった物質的には決して恵まれたとは言えない環境ではあったが、私は全く苦にしていなかった。
 そう。私は若かったのだ。
 ノーマルヒル(当時は  級ジャンプと言った)で金メダルを取った笠谷幸生氏は明大OBということもあり、試合翌日に西荻窪駅へ飛んで行きスポーツ紙・一般紙を何部も買い込み同じような記事を飽きもせず読んだ。閉会式では、センテンスにすれば僅か数行であっただろうが「札幌の皆さん、ありがとう」ということを、ブランデージIOC会長が日本語で語ったことに妙に感動し、将来自分が外国人の前でスピーチすることがあれば、できる限りその国の言葉で話そうと本気で思った等々、20歳になろうとしていた私は、本当に若く、野心と希望に溢れ、気分は未だ札幌の住民であった。
:入学当初は、和泉の図書館にあったブロック紙コーナーで北海道新聞を読むのが好きだった。そこにはふるさとのニュースがあり、ふるさとを意識していた自分がいた。そのうちに統一地方選挙ひとつにしても北海道知事選よりは東京都知事選が気になるようになり、同コーナーからは次第に足が遠のいた。また、1年生のときはあれほど帰りたいと思った実家もそのうち「まぁいいか」に変わって行った。
:大学を卒業してビジネスマンとなった私は30代前半の歳に再び札幌支店の営業課員としてふるさとに戻った。しかし3年もいたのにその時の記憶は、あれほど好きだった街や、半年もそこにある雪や、中学・高校の同級生のことではなく、何故か仕事絡みのことが大半を占めている。札幌支店の後パナマ支店(あの中米の)に転勤と言われ市内の病院で海外赴任者検診を受けた際、医者から「あなたの胃にひきつれが認められます。ストレス性の胃潰瘍が自然治癒してひきつれとなったものと思われます。」と言われ、その時はどういう訳か、これで自分も一人前の職業人になったかと苦笑まじりに思った。
:去年の暮れ、61歳の私は我孫子に自分と女房の墓を買った。(正確には手賀沼沿いの柏市・城山墓苑に永代使用料を払い込んだ。)私が次男であるからだけでなく、我孫子の在住期間が札幌のそれよりずっと長くなり、下ヶ戸の自宅が終の棲家となった私にとって、ふるさとの墓に入る考えは全くなかった。墓を決めるときにふと考えた。私にはふるさとに帰り、そこで働き、家庭を持ち、そこで永眠するという選択は無かったのだろうか?いや、あったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。自分はこうやって生きてきたんだ。いずれ私と女房の墓には、札幌ではなく、我孫子をふるさととす
る娘・息子どもが来てくれることだろう。
  年年歳歳花相似  歳歳年年人不同

 

 

わがふるさと
                                                                 39年法学部卒 真仲良範

私のふるさとは茨城県日立市です。
1695年、徳川光圀が神峯(かみね)神社に参拝した時、海上から朝日の昇る様子を「朝日の立ち上る様は領内随一」として、一帯を日立と命名したといわれております。
一般的には日立製作所、日立グループの企業城下町として知られ、流動的ではあるが、市の人口(約20万人)の40%は、これら企業の社員かその家族であります。ですから市内には工場、研究所、社宅、社員寮など多数点在しております。こう書きますと、街全体が何となく灰色のイメージですが、そうではありません。
南北に伸びた海岸線(海水浴場も6ヶ所あり。)市内各地には沢山の桜の木(『日本さくら名所100選』に選ばれている)、小高い丘には梅林などがあります。山の中腹にある「日立ゴルフクラブ」からの眺望は素晴らしいので是非お出かけ下さい。太平洋と阿武隈高地に挟まれている為、気候は比較的温暖です。
2012年にはモダンなJRの橋上駅舎が完成しました。(地元出身の著名な建築家妹島和代の作品。)建物全体が透明で、雄大な太平洋を眺めながら休憩出来る喫茶室などもあります。駅といえば、発車メロディが地元出身の作曲家吉田正のヒット曲「いつでも夢を」「寒い朝」が使用されているのもユニークです。
風光明媚ということだけでなく、食物が美味しい所でもあります。魚港が4ヶ所もあり魚介類は勿論、近年はブランド化した肉類(常陸牛、豚)もおすすめです。
このようなわがふるさとですが、悲しく辛い思い出があります。第二次大戦で昭和20年6月7月の空襲と艦砲撃射撃で被災した事です。その規模は大きく、史料によると市内だけで死者1735人重軽傷者400人と記されている。一部の工場が軍需工場化した為日立地区がターゲットになったと。小学校一年生だった私も、弟と母の手を握り戦火の中を逃げ惑う日々であった。今日あるのは幸運であったという事であろうが、犠牲になった多くの方々を忘れることは出来ない。
終戦は1ヶ月後であった……。完

 

 

我が新潟県長岡市には

 

「日本の三大○○」が四つもある

 

昭和三六年政経卒 橋 本 武 雄

 

 

 

我が長岡市には、「日本の三大○○」が四つあります。

 

日本国内市町村多し(今年一月現在で一七一九)と言えども他に例

 

がないでしょう。

 

長岡市が勝手に自慢・自称している訳ではありません。

 

「世界の『ふしぎ雑学』研究会」と言う団体が出版した「日本の『三

 

大』なんでも辞典」なる本で紹介されているものです。

 

それでは順次紹介しましょう。

 

 

 

一、「三尺玉」がシンボルの「長岡まつり大花火大会」

 

昨年の本紙で紹介しましたね。長岡の花火が、姉妹都市締結を祝

 

ってハワイ・ホノルルのワイキキビーチで打ち上げられた話しを。

 

その花火大会が、「大曲全国花火競技大会一万五千発」「土浦全国

 

花火競技大会二万発」と並び称される「日本三大花火大会」です。

 

毎年八月二・三日、戦災犠牲者追悼として開催され、我が国唯一

 

の「三尺玉」四発と信濃川に架かる八百mの二本の橋を舞台とした

 

ナイアガラを含め約二万発が打ち上げられます。

 

「三尺玉」は、直径三尺(約一m)重さ三百㌔の巨大な玉が、上空

 

六百mで直径六五0mの大輪の花を咲かせます。

 

 

 

二、日本一長い信濃川

 

日本に三万五千以上ある川の中で「信濃川」は、日本一長い川で

 

す。全長約三千七㌔、州(山梨県)・州(埼玉県)・州(長

 

野県)の境に位置する甲武信ヶ岳に、千曲川として源を発し、越後

 

に入って何故か「信濃川」と名を変えて日本海に注ぎます。昔は、洪水被害が深刻でしたが、現在では、分岐して海に水を流す二つの

 

「分水」のおかげで、洪水禍から逃れ、日本一の穀倉地の越後平野

 

を豊に潤してくれています。

 

二位は我孫子市を流れる利根川の約三千二百㌔、三位は石狩川の

 

約二千七百㌔です。ちなみに、流域面積では、利根川がトップです。

 

 

 

三、銘菓「越の雪」

 

日本の三大銘菓は、いずれも「落雁」と言うお菓子(もち米粉に砂

 

糖や水飴を混ぜて固めたもの。当時、砂糖はすごく高価でした。)

 

です。いずれもその誕生には、時の藩主が関わっています。

 

我が長岡藩の九代藩主が病気のおり、菓子商人大和屋(現在も続い

 

ている)が見舞いとして「和三盆糖」の菓子を献上しました。口の中

 

で、さらりと雪のように溶ける美味しさに感激した藩主が、この菓

 

子に「越の雪」と言う名を与え、長岡の銘菓とさせたものです。

 

加賀藩三代藩主が「天下一の落雁」を目指し、菓子商人森八屋に

 

命じて作らせたものが「長生殿」です。

 

松江藩七代藩主で茶人としても有名な不昧公治郷がお気に入りだ

 

った茶菓子が「山川」です。

 

同じ「落雁」ですが、それぞれに特長があり、「越の雪」が一番柔

 

らかく、「長生殿」が一番固く、「山川」がその中間の固さです。

 

 

 

四、酒造りのプロフェショナル「越後杜氏」

 

「杜氏」とは、江戸時代から続く伝統的な日本酒造りのノウハウ

 

を有するプロフェショナル集団の最高責任者のことです。

 

こうしたプロの杜氏集団は全国に存在し、中でも我が長岡市の「越

 

後杜氏」、岩手県の「南部杜氏」、兵庫県の「丹波杜氏」が特に有名

 

です。

 

「越後杜氏」は、長岡市寺泊野積地区の出身者が多く、すっきりし

 

た喉越しの「淡麗辛口」が新潟の酒の特徴です。かって、幻の銘酒

 

と言われ高値で販売された「越の寒梅」や「久保田(醸造元は長岡市

 

に所在)」「八海山」等を口にされた方も多いと思います。

 

 

 

以上、私の出身地長岡市の「日本三大○○」を紹介いたしました。

 

この他にも、「戊辰戦役」の歴史、「聯合艦隊司令長官山本五十六」

 

の記録、「良寛さん」の伝承、「静御前の墓」等見るべきものがたく

 

さんあります。是非一度お出でいただき、貴方の五感(視覚聴覚

 

触覚味覚嗅覚)で確かめていただきたいものです。

 

 

 

 

 

「わがふるさと・・・」 昭和61年商学部 川田定生

 

 

 

わがふるさと・・・我孫子。私は柏の岡田病院で生まれ、今年で52歳になります。めばえ幼稚園、我孫子第四小学校、我孫子中学校、県立柏高校と地元に密着した生活を送ってきました。そんな我孫子を少しばかり回想してみたいと思います。

 

私が物心ついたころは、まだ我孫子町だったような気がします。もちろん、北柏の駅もなかったような。天王台駅もあったのかな?常磐線はこげ茶色で、黒い脂ぎった床だったような思い出があります。茨城(土浦)と成田と上野をつなぐターミナル駅として栄え、自然いっぱいだった我孫子。幼少期に遊んだ思い出がたくさんつまっています。

 

私は、昔、いまは亡き父に手賀沼に連れていってもらい、よく釣りをしていました。50センチ以上のコイ、フナを当たり前のように釣ることができました。カエルを餌に雷魚やナマズも釣りました。仕掛けをつくり沢山の色のきれいなタナゴやテナガエビも捕りました。30センチ以上のカラス貝の大きさには、びっくりしました。今でも忘れることができません。そして手賀沼公園の足場には、たくさんのオニヤンマのヤゴの抜け殻が。オニヤンマやギンヤンマというトンボは非常にきれいな水でなければ生息できません。夏祭りの頃になると蛍が田んぼにたくさん飛んでいました。

 

また、夏休みになるとたくさんのカブトムシやクワガタ虫を捕獲しました。夜の3時に遊び仲間で集合して、沼南町まで自転車でいくのです。たくさんカブトムシがいる秘密の場所につくとそこには何十匹も木の蜜を吸うため群がっています。とってもとっても次から次へと飛んできます。一夏にて90匹以上のカブトムシを捕りましたね。家の外に高さ2メートル縦横幅1.5メートルくらいの四角い虫かごを父に作ってもらい、飼育していましたね。よく卵からふ化させて観察していました。

 

秋になると夜は虫の合唱大会が始まります。セスジツユムシ、ウマオイ、エンマコオロギ。極めつけが、クツワムシです。「ガチャガチャガチャ」って鳴くのですが、すごい迫力があります。また動きがすばしっこいから、捕まえるのが難しいのです。何とか捕獲した日には、友達に自慢しましたね。ただ、夜に虫かごにてうるさく鳴くので、よく親に怒られました。現在のグリーンタウンがあるあたりは、我々遊び仲間が集まるとよく遊んでいたところです。木の上に基地を作ったり、洞穴に爆竹をしたり。あのあたりは広い松林で、手賀沼を見下ろすと本当に絶景でしたね、今でも覚えております。

 

ゼンマイやつくしなどの山菜もよく食べました。いまじゃ考えられないな。

 

いつごろからか手賀沼が日本一汚い沼となり、植物も昆虫も魚も少なくなってきました。我孫子も発展していき、道路も舗装されいたるところにマンションや家が建ちました。便利さと自然を調和させることはとても難しいことですね。ただ最近の手賀沼をみていると生物が増えてきているように思います。昨年もおおきなノコギリクワガタ虫が私の家に飛んできました。昔のようにたくさんの生物がまた復活できるように自然いっぱいの我孫子を復活させたいなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

萬代橋と寄居浜・・・新潟
新潟を出て六十年。郷里には、時々帰っているが冠婚葬祭が主
で不定期。ただ、その度ごとに市内の風景が変わり、かっての姿
が消えていくようで、いつも寂しさを感じている。
信濃川と日本海に挟まれたこの町は、河川から水を曳いた堀が
市内を縦横に巡らされ、そこには柳を配した風情ある街並みが見
られていた。
この新潟の町を大きく変えたのは、昭和三十年十月一日に発生
した新潟大火後の復興とその九年後の新潟国体開催に向けての都
市計画で、市内の堀や水路はすっかり埋められてしまった。
この新潟市内で唯一変わらなかったのが、信濃川に架けられ
た萬代橋で、今も「絵になる橋」として、市民からも愛されてい
る。
この萬代橋は、明治時代に過去二回、木造の橋として造られた
が一回目は大火で焼失、昭和四年八月にコンクリート・アーチと
して建造され、現在に至っているが、建築史上、文化的な価値も
高く、架橋七五周年には、国の重要文化財に指定されている。
毎年八月に行われる新潟まつり(大民謡流し)は、この萬代橋
を中心に催され、踊る人、観る人を含め毎年、一万人を超える大
エベントになっている。
実は、河口に一番近い橋であった萬代橋の五〇〇メートル下流
に、新しい橋「柳都大橋」が昨年六月に一部開通した。重要文
化財としての萬代橋が損なわれるのでは との心配もあったがよ
うだが、セラミックによる化粧張りのこの橋と重厚な萬代橋との
好対照が定着し、あわせて、新しい橋から見た萬代橋の眺めが良
く、市民からは好評を得ている。
この萬代橋から西に征谷小路(「小路とあるが片側二車線の市
内のメーン道路)を通り、中心部の古町を突き抜け、しばらくす
ると松林とその林間から海が見えてくる。
この海辺「寄居浜」はかって、市の海水浴のメッカであったが
年々お高波による浸食で、今は海にも入れない状況である。
ただ、この寄居浜近くの松林は、多くの市民の憩いの場として
最適となっている。
その中心となっているのが、護国神社である。まず最初に挙げ
られるのはこの神社の本殿の脇に「明治大学戦没学徒慰霊殿」が安置
されていることである。そして毎年七月十日には、慰霊祭が開か
れ、大学理事長、学長他関係者多数が参拝している。
また、この護国神社内には、坂口安吾や北原白秋の碑があり、
少し離れた松林の中には、会津八一記念館などもある。
そして、この一角は「白砂青松」百選に選ばれ、他の碑なども
多くみられる。
最後に、この護国神社の付近で、横田めぐみさんが昭和五二年
一一月一五日に拉致された場所とされていることも付加しておく。
今 泉 健 一
(ご参考までに   今 泉)
「明治大学戦没者 学徒忠霊殿」が建立の脇に「明治大学戦没学徒慰霊殿」
が建立
近代日本における対外戦争50年余の間、明治大学関係者は、多数の
戦没者をだした。
その数は分かっていない。
太平洋戦争敗戦の際、混乱の中で奉納の戦没者名簿が紛失したといわ
れるが、その数は学徒出陣を中心に2000名余とも3700名余とも
云われる。
1939年に大学は戦没者記念碑として「忠霊殿」を建立した。
これは、駿河台内図書館(現研究棟前)内に置かれ、毎年七月一〇日
に慰霊祭を行ってきた。
太平洋戦争の戦没者も合祀され、1950年 関係者の尽力により新
潟県護国神社に移され、明治大学校友会新潟県支部(現新潟県地域支部
)が主体となって例祭を行ってきた。
このたび、護国神社のご厚意により同本殿脇に「明治大学戦没学徒忠
霊殿」が新たに建立されたのを機に、この間の経緯を記し、世界平和を
願い、永遠の追悼を誓うことになった。(2007年6月 明治大学)

風光明媚で歴史遺産の豊かな故郷:犬山(愛知県)
39年商学部卒  梅田勇夫

ふるさとの観光大使になったつもりで犬山の見どころを紹介します。
1.国宝・犬山城  室町時代の建設で天守閣は現存する最古の様式です。木曽川河畔に立ち天守閣からの眺めは絶景です。小牧・長久手の戦いでは秀吉の本陣になりました。つい最近まで成瀬家の個人所有でした。
2.国宝茶室・有楽苑 如庵   織田信長の実弟、織田有楽斎が建てた茶室で国宝の茶席三名席の一つ。苑内には他に重要文化財・旧正殿院書院など貴重な建物があります。犬山城のすぐ下に位置していて徒歩で行けます。
因みに東京有楽町の名前は織田有楽の江戸屋敷があった場所から名付けられました。
3.博物館・明治村  明治時代の貴重な建築物を建築当時のままの姿で移築され、保存されています。重要文化財だけでも西郷従道邸(海軍大将、元帥で隆盛の実弟)を始め10棟、国の登録有形文化財にいたっては、森鴎外・夏目漱石住宅、学習院長官舎(乃木希典も住んだ)、西園寺公望別邸・坐魚荘、聖ザビエル天主堂等60棟以上に及び1日で回るのは不可能なほどですが、絶対に一見の価値はあります。いずれの建物も中へ入って見学できます。
4.犬山祭り  京都祇園の山鉾にも匹敵する豪華絢爛な山車13両が町中を練りまわります。金糸銀糸の刺繍で彩られた襦袢を着た稚児が太鼓を叩く姿は愛らしいものです。小生も子供のころ太鼓を叩いていました。夜は山車に300個を超す提灯をつけ子供の襦袢は豆電球で飾られます。(今ではLED電球かも)
5.城下町  碁盤の目状に区切られ、古い町家や屋敷があちらこちらで見られます。また町の名前は城下町らしく、丸の内、大手町、本町といったものから町人、職人が住んでいたことから魚屋町、練屋町、寺内町、鍛冶屋町、鵜飼町といった町名が今も残っています。
6.日本モンキーセンター  日本唯一の猿(霊長類)の研究センターで全国にある猿公園とは違います。もちろん放し飼いにされている猿も多くいますが、京都大学霊長類研究所が主体となった研究施設です。有名な「アイちゃん」は人間の幼児ほどの知能をもっていて簡単な算数やドリルもできます。
以上くどいほどのお国自慢になってしまいましたが、どれも一見の価値があるものばかりです。名古屋通過の際にはちょっと途中下車して名鉄犬山線で犬山に立ち寄られることをお勧めします。(名古屋から30分)

恩讐を超えて
∽∽長岡とホノルル姉妹都市に∽∽

昭和36年政経卒 橋 本 武 雄

昨年3月3日、私の故郷新潟県長岡市は、ハワイ・ホノルルと太
平洋戦争被害の恩讐を超えて姉妹都市提携を結んだ。
恩讐とは、昭和16年12月8日、日米開戦の発端となり、艦船
多数が撃沈し多くの軍人等が命を失ったハワイ真珠湾攻撃と昭和2
0年8月1日、長岡市が真珠湾攻撃を指揮した山本五十六聯合艦隊
司令長官の出身地故に標的となったとも言われ、全市丸焼け、約1
500人の市民が亡くなり、山本五十六の菩提寺も直撃弾が投下さ
れた長岡大空襲が、両市の間に横たわる不幸な出来事であった。
平成14年、私はハワイ旅行で「アリゾナ記念館」を見学した。
記念館には、山本五十六の肖像画がありその説明文は、真珠湾攻撃
の指揮者であるのに「人望ある艦長にして卓越した戦略家。合衆国
との戦争には反対していた。」と好意的であったし、記念館紹介映画
も穏当な内容だった。歳月の経過か?等と感じたものである。
1月6日(日)午後9時からのテレビ朝日(5ch)「聯合艦隊司令長
官 山本五十六」を見られた方も多いと思う。海軍首脳としての苦悩
ぶりがうまく描かれていたと評価している。蛇足ながら、山本五十
六も原作者の半藤一利も私も長岡高校(旧制長岡中学)の出身である。
両市の交流が始まったのは、平成19年の「日米市長交流会議」
での両市長の出会いからである。以降、「両市は、不幸な戦争で大き
な傷痕を負ったが、その傷痕を絆として互いに強く深く繋がり、世
界平和を呼びかけるのにふさわしい組み合わせは他に無い。」として、
トップ同士に加え、「山本五十六記念館」と「アリゾナ記念館」や市
民レベルの交流が続いていたのである。
昨年3月13日、姉妹都市提携の記念と真珠湾・長岡の戦争犠牲
者鎮魂の祈りを込めて、長岡の「三尺玉花火」がホノルルビーチの
夜空を飾った。山下清も貼り絵で描いている長岡の花火は、日本唯
一の「三尺玉」と信濃川に架かる800mの2本の橋を舞台とした
ナイアガラを含め約2万発、「日本三大花火」のひとつと称され、毎
年8月2・3日、戦災犠牲者追悼として打ち上げているものである。
恩讐を超え平和を願う我が故郷の物語である。一度ご来訪を。

わが故郷 越後三条は
昭和四十四年卒  山 口 佐由喜

私が生まれ育ったのは、新潟県のほぼ中央にある三条市です。新潟市の南約四十キロ・長岡市の北約二十キロにある、人口十万人程の地方中都市です。
地名の由来は、伝承では、藤原摂関家が権勢を奮っていた時代、京都の三条に住まいしていた下級貴族の橘左衛門尉(さえもんのじょう)定明(さだあき)が、都での出世が望めないため、各地を経巡り、鴨川に似た川(*五十嵐(いからし)川(がわ))の流れていた地に留まったことから名付けたといわれています。ただ、私は、その骨相から見て、その一族の末裔ではなさそうです。
ご存知の通り、新潟県は西に日本海・東に越後山脈があり、間には、越後平野が広がって、米どころとして知られています。細長い形をしているため、海の幸・山の幸をその日のうちに食することができました。最近は、梨やブドウなどの果物も有名となっています。ただ幼いころは、裕福な家で無かったため、その恩恵に浴すること少なく、倹(つま)しい生活だったことを憶えています。
また、日本三大金物産地の一つ(*他は、播州三木と美濃の関)として全国的に知られています。農閑期の収入確保のため始めた産業です。今でも、爪切り・アウトドアー用品・ハウスウエアー商品等で、全国区のメーカーが多々あります。加えて、今年伊勢神宮の式年遷宮の年に当たりますが、その新殿の(和)釘は全て、三条のものが使われます。私がいた頃、街を歩いていると鉄の焼けた臭いとトッテンカン・トッテンカンの音が聞こえてきました。それも今は、故郷の懐かしい思い出です。
人情にも触れると、越後人は情に熱く・細やかで、義に篤いといわれています。上杉謙信が。困った周辺国から支援を頼まれると否と言えずした遠征や敵である武田への塩援助の話や、河井継之助が、理不尽な要求には断固戦う気概等は、今に受け継がれていると思われます。ただ、あまりに愚直といえば愚直、融通が利かないといえば利かない面があり、結果的に勝ち組となっていません。
故郷自慢は、限(きり)がありませんので止めにしますが、三条と母校明治大学の関係を言えば、先輩諸氏が地元にたくさんおられ、私が明治大学受験を考えていると知ると、色々アドバイスをしていただいたことが思い出されます。もうそれから半世紀が経とうとしています。思えば、時の過ぎるのは早いものですね。まさに、「少年老い易く、云々」です。

水野 隆我孫子地域紙部長が逝去されました。去る7月22日(金)午後7時10分、入院先の慈恵医大柏病院で死去されました。78歳でした。
通夜は7月25日(月)18時から、告別式は7月26日(火)11時から、我孫子市内の斎場で執り行われ、多くの方が参列してお別れを惜しみました。

我孫子地域支部の持永あい子さんが、NHK千葉放送局の依頼で、去る3月2日にNHKFH千葉の「まるごと千葉60分」に出演されました。テーマはチャイナドレスについてです。その放送の録音を下記に掲載しますのでクリックしてパソコンに取り込んでお聴き下さい。
持永さんのお話の前半  http://fkja.voiceblog.jp/data/reo-ne/1303174054.mp3

〃     後半  http://fkja.voiceblog.jp/data/reo-ne/1303175105.mp3

前略、明治大学の校友会は、他の大学の出身者の間でも、評価の高い校友会活動が行われていることで有名です。先輩皆さま方のご努力の成果かと存じます。

このところ明治大学が、急速に元気になってまいりました。
今受験生減少時代に着実に受験者を増加させてきた、数少ない大学です。今年はとうとう、十万人の受験者数を超えてしまいました。全国第二位の数です。インターネットのある頁に、「やろうと思えば何でもできそうに思える大学」と書かれていましたが、まさに現実にもその通りの大学です。
非常勤で商学部の方でゼミを開設していますが、そのことを切々と感じる昨今です。
「二十一世紀は明治大学の世紀」というのは、私が常々学生に言っていることですが、成長発展の第一歩が、ようやく踏み出されたというのが、現在の印象です。楽しみな昨今です。後略

会員の随想

そして我孫子が好きになった 山口 佐由喜

天王台に居を定めて三十年余が経過した。その内の

二十七〜八年は、「千葉都民」に象徴されるように、ほ

とんど職場から帰巣するだけの場に過ぎなかった。

なぜ、我孫子に住むことになったかは、たまたまの

偶然で、結果的にそうなっただけである。一度「志を

抱いて郷関を出ずれば・・」の心境で、新潟を出てき

たからには、自分の城を持つ夢(?)があった。その

ため、給料の中から、住宅取得のための積立を始めた。

当時、預金には三百万円のマル優制度があって、金

利には無税であった。収入を得て十年余、やっとその

額に近づいたと思った頃、首都圏のマンション価格が、

一年間で四百万円(平均住宅面積)以上値上がった。

十年以上コツコツ貯めても、一年でパーになってしま

うバブルであった。

そこで、取得する場合の条件を三つ付けた。一は、

通勤時間は、本線で約一時間以内 二は、下車駅から

のバスは不可 三は、ローンを、それまでの付合いを

続けられる額以下とするだった。

十数倍の競争率で、抽選に当たっただけだ。それま

で我孫子を知らなかったし、先に書いたように数年前

までは、家族は別として、住民票の記載地だけだった

ようだ。

リタイア後は、我孫子を知り、我孫子に些かの縁を

持ちたいと思い、活動している。我孫子の良さは、気

候温暖で、歴史があり、高校時代愛読した「或る男」

等の作者武者小路実篤ら文人の旧居や史跡が適度に散

らばっている。ただ何と言っても、大きな湖面をもつ

手賀沼とハケの道を含むその周辺であろう。その上、

心地良い付き合いができる土地柄と感じている。孫を連れて街を巡

り、その良さを体験させ、発見し、かつ将来は、我孫子に居住して、

新しい良さを創造してくれることも期待したい。

 

 

 

記録なし 高橋 智

今年の箱根駅伝での明大の活躍には久しぶりに胸が

躍った方が多いと思います。古豪と言われようが、結

果的に十位であろうが、紫紺のユニフォームが先頭を

切って駆けるシーンは感動ものでした。

さて、最近の世の中はちょっとしたランニングブー

ムだと言われています。高齢化社会を迎えて元々健康

維持に関心が高かったことに加え、リーマンショック

以降の不景気による節約志向と安近短でできるジョギ

ングの手軽さがうまくマッチしたといった背景がある

ようですが、各地の市民マラソン大会には大変な盛況

になっているようです。

例えばブームの火付け役になった二月末の東京マラ

ソン(42.195Km)は三万人の定員に対して25万人の申

し込みがありその倍率はなんと8.5倍だったり、毎年十

月第四日曜開催の手賀沼ハーフマフソン(21.0975Km

は申し込み開始から僅か数日で一万二千の定員に達し

てしまい早々に締め切ってしまうといった状況になっ

ています。

小生は手賀沼ハーフマラソンに九年連続して出場し

ておりましたが、昨年十月の大会には上記の次第で申

し込みできず残念な思いをいたしました。最近のブー

ムは一見マラソン・バブルのような感じもありますが、

近場で行われる手賀沼・つくば等の大会に参加してみ

ると、男女を問わず六十歳以上の方や、陸上部に所属

してない普通の高校生、サラリーマン、OLの方々が

何の気負いもなく42Kmや21Kmを走りきってしまう(一

部は歩く人も多いのですが)には驚きます。

翻って本年五十八歳の小生は四月に生涯十八回目の

フルマラソンとなるかすみがうらマラソンにエントリ

ーしておりますが、過去二年連続して完走はしている

ものの後半べた歩きで制限時間六時間をオーバー、何

れも「記録なし」の結果に終わつております。流石に

今度も記録なしなら、これが潮時と思いフルマラソン

からの撤退は覚悟しておりますが、さてどうなります

ことやら?

 

 

教職課程奮闘記 小田島 淑子

女子の大学進学率がまだ一桁台だった時代、地方か

らの私大進学を許してくれた両親の唯一の条件が教員

免許取得だった。

資格を取るだけなら教職課程を申請し必要な単位を

取ればよい。しかし、当時明治大学教職課程主任教授

だった三木寿夫先生の尋常ではないといううわさの

「教育原理」を受講し、その後の口頭試問にも合格し

なくては教職実習には進めず、資格は取れないという

事を知らなかった。

三年生になり、駿河台の大教室で始まった「教育原

理」の第一日目、教室へ入るなり入口を施錠した先

生を見て殆どの学生は前途に漠然とした不安を抱い

たと思う。授業が終った後、出口で一人一人の出席

票に印を押し、これがないと試験は受けられないと

知った。

授業は毎週一つのテーマが提示される。例えば「ほ

んとうの教育とは何か」とか、「個性的教育とな何か」

など、きわめて捉えにくいテーマばかりだった。

試験はその中から一題出題され、それを八百字以

内にまとめ、切手を貼った自分宛の封筒に入れて提

出する。後日、先生から面接日時が書かれたメモが

届くという運びだ。

全員に届くのではない。約30パーセントの学生は

面接通知を貰えたが、あとの30パーセントは、ただ

「答を書け」というメモしかない。この「答を書け」と

は、授業内容をまとめているだけで自分の見解がない、

という辛口の評価で、残りの学生には返事すらない。

薄暗く寒い冬の午後、記念館の半地下にあった先生

の研究室で口頭試問を受けた。最後の質問に答えられ

ず呆然としている私に、「まあいいだろう」との一声が

聞こえた。なんとか合格したのである。

四年生になっての教育実習も、郷里に帰る事は許さ

れず、都内の中学校で誰よりも早く登校し、誰よりも

遅く帰宅するようにと指示された三週間を送った。

結局、あの年(昭和四十一年)の教員免許資格取得者

は、大学全体で二百名足らずだったと聞いている。

 

 

 

 

 

 

 

(かね)(つぐ)の居城「与板城」

我が故郷にあり 橋 本 武 雄

 

会員の皆